2019年12月18日水曜日
逆境に勝った日本の偉人たち 日本武尊、源頼朝、徳川家康
今の日本の政治ばかり話していると気が滅入りますので、過去の偉人たちの話を書きたくなりました
今日は日本の昔の偉人の中で、逆境に打ち勝ってきた人を取り上げたいと思います
昨日はもう一つのブログで外国人の近年の成功者について取り上げました
こちらでは日本のかつての偉人たちについて紹介いたします
まずは日本神話に出てくる日本武尊がいます
日本武尊は景行天皇の第二皇子として生まれ、もとの名は小碓尊(おうすのみこと)と言われました
彼には兄の大碓命がいたのですが、その兄は父である景行天皇の寵妃を奪って自分のモノとしてしまいます
景行天皇は日本武尊を呼んで、兄を諫めるように告げます
するとしばらくして大碓命の姿が見えなくなったため、景行天皇は日本武尊に問いただすと、彼は兄を殺しましたと悪びれずに言います
それを聞いて恐れた景行天皇は、日本武尊を外に出すように仕向けます
まずは九州にいるクマソタケルの討伐を命じられます
日本武尊わずかな従者も与えられずに敵地に赴き、女性に扮して近づくという奇襲でクマソタケルを征伐します
その時に、クマソタケルらがその武勇を称えて、日本武尊という名前を贈るのです
以降、日本武尊という名を名乗るわけですが、これも父の景行天皇からすれば、反乱軍の親玉からもらった名前を大切にしていることなど、謀反の思いがあるのではないかという疑念を抱かせることとなったでしょう
西方の征伐が終って帰ってきた日本武尊は、またすぐに今度は東方の征伐に遣わされます
日本武尊は「父天皇は自分に死ねと思っておられるのか」と嘆きます
道中、伊勢神宮に立ち寄った日本武尊は、そこで叔母の倭比売命に会い、「危急の時にはこれを開けなさい」と言って、袋と神剣である草那藝剣(くさなぎのつるぎ)を渡されます
いまの静岡県焼津市あたりに来た時、日本武尊は敵に騙されて草むらの中に入っていき、そこで四方から火攻めにあうという危機を迎えます
まさに人生最大の逆境の中にある時に、倭比売命から手渡された袋を思い出します
開けてみるとそこには火打石が入っていました
日本武尊は草那藝剣をふるって周囲の草を薙ぎはらい、火打石で迎え火をつけて助かります
人との出会いを大切にすることと、逆境の時にも勇気をもって剣をふるう事が、困難を乗り越える力となったのでしょう
たんに恐れて逃げているだけでは助かりませんでした
諦めずに勇気を出して一生懸命に頑張ったことで、逆境を打ち破ったのです
さらに逆境をひっくり返して成功を収めた人物として源頼朝がいます
源頼朝は久安三年(1147年)、源義朝の三男として生まれました
平治元年(1159年)に父・義朝は平治の乱で敗れてしまいます
源頼朝は京を脱出したものの、美濃で捕らわれて平清盛の前に引き出されてしまいます
12歳であった頼朝は普通であればそこで命を落とす運命にありました
若いとはいえ義朝の息子でしたから、当時としては後の反乱の種を除くためにも、斬られて当然のところです
しかしそこに清盛の義母・池禅尼が登場します
池禅尼(宗子)は平忠盛の間に家盛という子供をもうけるのですが、病気で亡くしてしまっていました
その亡くなった息子の家盛の面影が頼朝に見えたという事で、彼の助命を懇願するのです
清盛も情に厚い人だったらしく、その願いを聞き入れ、頼朝の命を助けて、伊豆国へ流すこととします
ギリギリのところで命を拾った頼朝でした
その後の頼朝は伊豆で20年ものあいだじっと潜み、復活の時を待ちます
そして治承四年(1180年)、後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵し、各地の武将にも平家打倒の檄を飛ばします
それが伊豆にも届き、ついに頼朝は腰を上げるのです
頼朝は伊豆や相模の武士をまとめて挙兵し、鎌倉を目指します
ですが、あっけなく平家方に敗れ、海路で安房までなんとか逃げ延びました
このとき頼朝とともに逃れたのは僅か10人程度だったと言われます
それでも頼朝は諦めませんでした
再び北条時政や三浦義澄らと合流し、上総広常や千葉常胤などに協力を求めていきます
そしてとうとう鎌倉の地に入っていったのです
やがて頼朝は弟の義経の力も借り、平家を破って鎌倉幕府を打ち立てたのはご存知の通りです
あやうくのところで命を落とさずに済み、伊豆に流されて長い年月を費やしても、頼朝の心には平家打倒、源氏再興の不倒の思いがあったのでしょう
もしも彼の中に長い月日と共に、初心が失われていたなら、鎌倉幕府の偉業も成し遂げられなかったはずです
さらにもう一人の人物を紹介します
江戸幕府をひらいた徳川家康です
この方も頼朝に似た境遇を経て幕府を開きます
家康は幼少期を今川のもとで人質の身として育ちます
その時に愛読していたのが、鎌倉幕府の歴史書で頼朝の逸話が書かれた「吾妻鏡(あずまかがみ)」でした
おそらくは島流しにあい、志を捨てず後に幕府を開く頼朝と、いま人質として置かれている自分とを重ね合わせたのではないでしょうか
幼いころの竹千代(徳川家康)は、やがて自分も幕府を開くことを夢見ていたのだと思います
今川のもとで人質として育ち、今川が敗れてからは、織田信長と同盟関係を結びます
その同盟関係も公平なものではなくて、家康は信長に使われるような役回りです
信長の命令により、長男の信康を切腹させるという痛ましい出来事もありつつ、家康は信長と同盟関係を続けるのです
さらに時代は変わり、信長が部下の明智光秀に討たれ、豊臣秀吉の時代が来ます
その豊臣秀吉と徳川家康は”長久手の戦い”で対決します
戦いは家康の大勝利となりました
しかし総大将であった織田信雄が秀吉と講和をしてしまい、家康の勝ちは霧散してしまいます
その後は豊臣秀吉の天下が安定してきており、家康は挽回する時を失い、その下で雌伏せざるをえませんでした
家康は秀吉の命令で領地を東海地方から関東へ移され、江戸城へ入ることとなります
そして秀吉の死後、石田三成ら豊臣方の西軍を関ヶ原の戦いで破ります
ついに徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開くこととなります
源頼朝も徳川家康も、長年の雌伏の時期を過ごしますが、それでも望みを捨てず、じっと耐え続けたことで、幕府を開くという偉業を成し遂げました
人物としての評価は色々でしょうが、逆境に屈することなく、大きな夢を実現させたという点は、偉大なところがあるでしょう
そのように日本の歴史には数多くの偉人がいて、夜空の星のように輝いています
By
洪 正幸
時刻:
12月 18, 2019
https://www.nation-of-the-sun.com/2019/12/blog-post_18.html逆境に勝った日本の偉人たち 日本武尊、源頼朝、徳川家康
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歴史の授業ですね
返信削除以前もこのブログで先生が述べられていたと思いますが、日本史は本当に人材の宝庫ですよね。
返信削除歴史の転換点で出てくる人物が本当に魅力的な人が多いです。昔の人は立派だったんだな…と見上げてしまいますが、自分もいち日本人として先輩方にほんの少しでも近づかなければと思います。
個人的に先生の別ブログの方で取り上げる歴史上の人物の話も非常にワクワクして好きです。
逆境を乗り越えるのは大変ですが、超えると大きな成功がありますね。
返信削除偉人と呼ばれる人達は、今回のブログのように苦難の時期が必ずありますね。
私も苦難がきたら喜んで受け入れます(大きな成長と成功のために)
勉強になります!
信康と築山殿の件でなんか家康が嫌いになりました。
返信削除素晴らしいお話をありがとうございます!
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